【海と老人と私:美波と博士が両方生存】
……ここは中国臨海部の某大都市。あの飛行機での事件から、1日が経とうとしていた。
ヘンテーコ博士と美波を乗せた車が、夜の海辺を走ってゆく。大学からの迎えで、2人はこれから併設の宿舎に向かうのだ。翌日には博士は学会発表、美波はその手伝いを急遽することになっていた。
深い紺色の水面には、白い月の影。ドライブには申し分ない光景だ……美波の機嫌が、もう少し良かったなら。
美波「ぐすっ、死んじゃった、死んじゃった……ひっく、江波が死んじゃった……うわぁーん……」
博士「美波くん、あまり目をこすると、化粧が落ちるし、化膿するぞ。ティッシュで顔を拭くんじゃ。もうすぐ大学じゃぞ」
博士がポケットティッシュを差しだすが、美波はめそめそと泣くばかり。
江波氏からひどい仕打ちを受けたとはいえ、何年も付き合った仲。彼の死が美波に与えた傷は、決して浅くはなかった。おまけにどう手を尽くしても、彼が生き延びて改心する世界線はなかったのだ。
美波「なんで、なんであいつは嘘なんか……ずっと、一緒にいたかったのに……」
博士「……美波くん、あれをごらん」
博士は車の窓を開け、外を指さした。ちょうどカーブした道に入るところで、海をいっそう近くに見ることができた。
博士「見るんじゃ、あの寄せては返す波を、そして美しく輝く月を。あれは、まさしくきみじゃ」
美波「……それが、何だっていうの? 博士」
博士「きみは小さかったころ、わしの病院に、お母さんに連れられて来たことがあったね。
お母さんから聞いたよ。海の見える町できみを産んだことを。『人生の荒波に溺れても、寄せては返す波のように、めげずにまた美しく歩んでほしい』と願って、『美波』と名前をつけたことを。今がそのときじゃ」
美波は頬杖をつき、真っ赤な目で窓の外をながめた。運転手が気を利かせたのか、速度も落ち、十分に見ることができた。
美波「博士」
博士「なんじゃね?」
美波「また歩き出すのってさ、今すぐじゃなくていいよね?」
博士「もちろんじゃよ、誰が責めるものかね。ゆっくりでもいい。この悲運を乗り越え、きみ自身の道を探していくんじゃ」
美波「ふーん、そっか」
白魚のように細い指で、美波はティッシュを1枚取った。目元と鼻を軽く押さえて、こぼれた涙をぬぐう。
博士はにっこりと笑った。彼女の瞳に、久しぶりに生き生きとした輝きが灯ったのがわかったからだ。
〈おしまい〉